2024年3月末、私は26年間勤めた職場を退職した。
サトイモが幼稚園に行かないとゴネて職場を遅刻するたびに、これは小学校に行ったら仕事は続けられないな、と去年から決めていたのだ。
職場の人で、私の遅刻や休みをとがめる人は誰もいなかった。
けれど、休むことで気後れしたり遠慮したり、戦力外の無力さを感じたり、逆に業務上の負荷が過分にかけられると爆発しそうになったり、ストレスの多い毎日だった。
時間がないから、いつも慌てて仕事をして、慌てるからよくミスをして、しょっちゅう謝っていた。
これはもう仕事を辞めよう、と思った瞬間。
サトイモがトイレに籠城して出てこなかったとき、中から鼻歌が聞こえてきた。
もう十分以上、トイレに入っていて、出かける時刻はとっくに過ぎていた。
私は外から鍵を開け、
「ママはもう遅刻だよ!あんたのせいで!!」
と便座に座っているサトイモに怒鳴り散らした。
サトイモは平然と笑っている。
「ママが困っているのがそんなに面白い?」
と私が不動明王かというくらいの怒りで尋ねると、
「おもしろ~い」
とヘラヘラ笑った。
その顔を、思わず平手打ちしてしまった。
叩かれてサトイモは大声で泣くわけではなく、ビックリするわけでもなかった。
気が狂ったように、
「ママが叩いた!ママが叩いた!ママが叩いた!」
と自分で自分の頭を叩き続けた。
私は泣きながら、サトイモを抱きしめてやめさせた。
子どもの頬を叩くなんて、もう二度としてはいけない、と固く思ったけれど、仕事を続けている以上、絶対にしない確信は持てなかった。
また遅刻しそうになる度、怒鳴り散らし、体罰に近い形で無理やり引きずっていくはずだ。
退職願を出してからは、毎日気持ちがルンルンだった。
4月からどうやって過ごそうか、あれもやりたい、これもやりたい、時間ができたら何でもできる気がして、万能感に包まれていた。
職場が嫌いというわけじゃなかったけれど、これっぽっちも未練などなく、カウントダウンの日々は毎日ウキウキして過ごした。
私が新卒で入って、勤め始めて1年たった頃の話。
同じ課の人が異動になった。
その人は入社してからずっと、そこの部署に13年もいて、異動の前日のお別れの挨拶で、男泣きに泣いた。
同じ建物の2階から5階に席を移るだけなのに!!13年もいたら泣くものなのかなぁ…、と私はひどく衝撃を受けた(だからいまだに覚えているのだ)。
私はその倍の26年、同じ職場に勤めた。
いっぱい異動もしたし、途中、育休を三年も取った。
いろいろ学べたし、知りあいもたくさんできた。
最後の日に泣いたりするかな、と思ったけれど、退職後の自由の日々を想像すると幸せすぎて、全く涙はでなかった。
正直、なーんとも思わなかった。
たまたまシュレッダーが壊れていて、廃棄書類を処分しきれないまま出ていったのが申し訳ないと思ったくらい。
なんでこんなに時間がないの?
仕事に行かないのだから、毎日たっぷり時間があると思っていた。
それが大間違い。
仕事にいかないということは、子どもを預けない=サトイモが家にいる、ということだ。
精神的に幼いサトイモは、いまだにジャンプして抱きついてくるし、部屋はとんでもなく散らかすし、「人生ゲームしよう、おにぎり屋さんゲームしよう」とうるさい。
付き合って遊んでいたり、勉強させて〇付けでもしようものなら、家事と子どもの相手で一日は過ぎる。
入学準備、入学式の用意、習い事の体験の問い合わせ、放課後等デイサービスの下調べや見学…、子どものことだけでもやることが山積みだ。
退職したら毎日ブログで日記を書こうと思っていたけれど、逆にその時間がとれない。
あっという間に、4月に入り、入学式を迎えた。
入学式のおしゃれ
幼稚園の卒園式でサトイモに着させる服を私が用意していなかったため、夫は危機感を覚えたのか、「入学式の服は俺が準備する」とスーツからシャツから靴まで全部、夫が用意してくれた。
「女の子じゃなくて男の子でよかったんちゃう?子どもにキレイな服を着せてやりたいとか、そういう気持ちはないやろ?」
と夫が嫌味を言った。
でも、当たっている。
昔からファッションにはあまり興味がなかったし、子どもの服も知人のお下がりで十分と思っている。
夫は違う。子どもの服や持ち物にやたらとこだわる。
サトイモが「なでると絵が変わる」トレーナーを欲しがるので、私がAmazonでドラえもんのトレーナー(なでるとジャイアンに変わる!)を買ってやったら、夫は、
「だっさ!ようそんなトレーナー着るなぁ」
と呆れていた。
本人はそれが気に入っているし、ドラえもんが好きなんだから別にいいと思うんだけど。
夫が買ってやるアウトドアブランドの服より、よっぽど喜んでいたのに。
とにかく、入学式で私が印象に残ったことは、何を着るか着せるか、それに尽きた。
私は、亡くなった母が買ってまだ新品のままの着物を着た。
着付けの美容室をお願いしたり、小物類を揃えるのにバタバタ。
夫は、和装について全然わかっていないので、なぜそんなに手間暇かかるのか理解せず、終始イライラ。
美容室から小学校まで歩くのも、草履で歩く私のスピードが遅いことでイライラ。
サトイモが信号待ちでしゃがみこんだり、縁石に登ったりしてまともに歩かないことで、晴れ着が汚れるとイライラ。
おしゃれさんはイヤだなぁ、「木綿のハンカチーフ」の歌詞に出てくる、「見間違うようなスーツ着た僕」より「草に寝転ぶあなたが好きだったの」のとおりだなぁ、と私はつくづく思った。
美味しいけど楽しくない
入学式のあと、夫がお祝いのランチを食べに行く予定を組んでくれた。
中華料理の名店‘施家菜’が開いた‘點心坊’という点心専門店で、私が以前から行きたかったお店だ。
サトイモに、
「入学式が終わったら、三人でごはんを食べにいくよ!」
と教えると、
「え~!お友達と一緒に行きたいよ。ガストかマクドナルドがいいよ」
とサトイモは残念そうだった。
高級中華だよ、すっごくおいしいよ、と言ったところで、サトイモの心は動かない。
「嫌だ、行きたくない」
今日の主役なのに親の押し付けで気の毒なことをしたな、とは思うものの、お店は予約してあるし、今さらお友達も誘えない。
入学式後、サトイモは家が反対方向のお友達について帰ろうとして夫に叱られ、学校の裏側に走って逃げ、夫に叩かれ、泣きながら連行され、渋々帰宅。
夫はカンカン。
お店の予約時間に間に合わず、時間変更のうえ、さらにタクシーで駆けつける羽目になった。
和装の私は一旦家で着替えることになっていたので、
「時間がないなら、着物のままお店に直行しようか」
と提案したが、夫はため息をつきながら、
「食事で着物が汚れるやろ」
と言った。
確かに私は醤油などをこぼしがちなので、それもそうだけど、と諦める。
點心坊の飲茶は美味しかった。
でも、全然楽しくないし、うれしくもなかった。
蒸し物の点心が選べるワゴンで、サトイモは鶏の足を見て食べたがった。
夫は「絶対無理!よう食べんやろ!」とやめさせようとしたが、私は
「私が食べるからかまへん!」
と注文させてやった。
案の定、サトイモは鶏の足を一口しか食べなかった。
でも、私は満足。
入学式は平日だったので、夫は最初、出席しないつもりだった。
でも、周りから、今どきの入学式は、可能な限り父親も仕事を休んで出席している、という話を聞き、誘ってくれたパパ友もいたため、夫も都合をつけて休みを取った。
入学式の朝、
「着物も着るし、俺がおったほうが助かったやろ」
と夫が言い、その押し付けがましい言い方にカチンときた私は、
「助かるけど、私のために出席するの?自分が出たいから出るんちゃうの?」
と怒った。
その日の夜、
「なんやかんやあったけど、今日は休み取って行けてよかった」
と夫が言った。私は一言、
「はあ?」
と認識の違いに驚いた。
人間、いろんな視点があるもんである。
サトイモに尋ねてみたら、
「べっつに~」
と、何も覚えていないようだった。
画像は入学式前日のお風呂にて。
「おなかに『1年生おめでとう』って書いて〜!」
とねだられて。
あほまるだし。